白熱灯が薄ぼんやりと揺れる。錆びた臭いに赤黒い天井。人々がこの<方舟>に籠城して百年近くの年月が過ぎ、かつてあったとされる空の概念は鉄の天井にすっかりすり替わっている。
 その中でも時間の経過は存在し、夜は白熱灯が朱に光る。あたりは錆と混じって赤黒く揺れ、生まれてからずっとそれしか知らない者でも不安を覚える。この白熱灯がいつからそのように作動するか誰も知らないが、朝になれば白熱灯は真っ白に輝く。だとしても、錆の色は変わらず、赤から焦げ茶色に変わるだけ。目覚めるという単語とは程遠い、陰鬱な明日を迎える。
 この景色を二十年繰り返し見ているケイは、頬杖をついて窓の外を見ていた。窓の中も打ちつけた鉄格子、外も同じく鉄格子。家の外と中、各地建物と道路、その並びはしっかり決まっているものの、景色に大きな変わりはない。つまらない、と言ったところでこの景色は死ぬまで続くのだろう。ならば、足りない知恵を振り絞って楽しいことをするしかない。
 ケイは化粧台に腰掛け、長い黒髪を高く束ね飾りを付ける。金細工に似せたチェーンのようなものが黒髪に混じる。まぶたにアイシャドウ、マスカラ、目尻に赤いライナーをすっと引いて、赤いリップを塗る。ティッシュで軽くオフをし、首筋に香水とラメ入りのパウダーをはたく。
「うーん、今日も俺ってば美しい」
 と、自分をたっぷり褒めて、仕上げの愛想笑い。客が喜ぶようにと練習した極上の笑顔だ。
 今度は立って全身のチェック。身体に沿うようにできたドレスは腰元までスリットが真っ直ぐはいる。動くたびに白い脚と花柄が揺れるので、客に好評だ。一通り身体をくねらせ、
「さいっこーだな、俺! こんな美しい男見たことなーい、やだぁ、惚れちゃう」
 鏡の自分を一通り絶賛すると、扉を開けた。
 一人通れる狭い通路を真っ直ぐ進み、カーテンを潜る。一際強い光に照らされた円台に進む。
 ケイは踊り子だ。ステージの上に立てば世界は何もかも変わる。錆だらけの薄暗い視野は輝き、死んだ目をしていた客の瞳も輝く。金のチェーンが重なり、しゃなりしゃなりと鳴れば、催眠術にでもかかったような目眩と陶酔が、ケイと客に渦巻く。この僅かな娯楽がここの人々の心を少しだけ解放する。
 この世に家の外と中の概念があるとしたら、ケイたちの住む世界は家の中。家の中に家ができ、さらに家が繋がり、家が家がと無限に続いてできたのが、この世界、鉄屑で出来た終わりのない城、人々が方舟と呼ぶこの場所だ。いつ、誰がこの方舟を作ったかわからない。気がつけば鉄骨の建物の中にいくつか区域が生まれ、人々が住む場所が作られ、それぞれが暮らせるように整備されていった。噂ではまだまだ増改築され、今では誰もが完全に把握できない、まさに迷宮化を極めているらしい。
 そのため、ケイは方舟の外を知らない。ケイだけではない。亡くなったケイの母も外を知らない。会ったことはないが、祖父母も知らないだろう。外への興味は特になく、ただ自分が輝いていれば問題はない。
 足を止め、フィナーレのポーズで終わる、同時に拍手がケイの耳に届く。地響きのようなごうごうとした熱い拍手――とは程遠い、まばらな手。ケイの心音が嫌というほど大きく打った。
「ま、こんなもんかね」
 長い煙管を加えた老女がため息のようにつぶやく。
「あんたに言ったわけじゃないさ。この娯楽の話よ。潮時ってやつか」
 老女はこの部屋の管理者だ。小さな部屋を無理やり劇場風に円台を乗せ、白熱灯を外よりも多く取り付けただけの簡易的なものだ。最近は錆が酷く、あちこちに穴が空くようになっていた。
 ケイの視線を感じてか、老女も錆の穴を見る。
「どうしても劣化はしていく。こればかりはどうしようもないね」
「ばぁさん。ここ、売るのか?」
 ケイが尋ねると、老女は火の消えた煙管をくわえて少し黙った。
「どうしようかね」
 それだけ言うと、老女は別の部屋へ消えた。
 この舞台とケイの部屋は老女から借りている。家賃は踊りで稼いでなんとか払っている程度で、金の事を考えると老女が食べていくだけでやっとで、修繕費まで出るはずがないのはすぐわかる。直したところでケイが払えないのは、ケイ自身よくわかっている。
「潮時ねぇ」
 自嘲気味に呟き、部屋に戻る。化粧も落とさずぼんやりと窓の外を見る。舞台と変わらない、鉄の景色。遠くは暗く、何も見えない。
「どうしたものか……」
 白熱灯の色が朱からだんだん白へ変わる。赤黒い景色は茶へ変わる時、ケイは白く瞬く何かを見た。
「何……」
 白熱灯が壊れかけたのかと思ったが、それにしても小さな点だ。目を凝らしてみてもわからない、白い何かは、空中を不規則に飛んでいる。光る埃にも見えたが、それにしても生きているような動きだ。
 変な虫かも知れない、とケイは窓から少し身を乗り出した。
「よく寝た。おはよう、ハレ」
 ケイは思わず肩を震わせた。女の子の声だ。慌てて下を見ると、少女が道端に腰掛けて伸びをしていた。その手には白く光るもの。少女は光を見て何か話しかけている。
「何してんの?」
 ケイは少女に声をかけた。すると少女は顔を上げ、へらへらと緩やかな笑顔を見せた。
「わぁ。キレイなおねぇさん」
「残念ながらお兄さんだよ」
「じゃあ、キレイなおにぃさん。私はハルだよ」
 少女は立ち上がり手を振る。無邪気に微笑む姿にケイは呆然とする。こんなにも無防備に笑う人を見た事がない。この迷宮で笑顔はごますりか酔っ払いしか出せない。ケイは珍獣でも見るように少女を観察した。微笑む顔以外に特に特徴はない。汚れたパーカーと色素の薄い髪と肌くらいなものか。あとは、その手にある光るもの。
「お嬢ちゃん。その手にあるソレ、何?」
「ハレのこと?」
 少女は両手を掲げ、光るものを放つ。
 それはケイのところまでふわりと飛び、くるりと舞った。
「虫……?」
「ちょうちょだよ」
「ちょうちょ……?」
 それが虫の種類だと言われたのに気づいたのは数秒後の事だ。迷宮の虫はすべて害虫と一括りにしているため、種類を考えたことはほとんどない。それでも、ちょうちょというものが虫の種類と思ったのは、昔本で見た事があったからだ。暖かいところに住む、花を好む虫。
「ふぅん……蝶……なんでこんなところに」
 蝶はケイの周りから離れ、少女の額にとまる。
「私ね、はるを探してるの。知らない?」
「えー? 何それ」
「んっとね、あったかくて、きらきらしてるとこ。えーっと、はるはね、外にあるって他の人が教えてくれたよ」
「外ってどのあたり?」
「この扉の向こうの向こうのずっと向こうにある、壁がない向こうだよ」
「つまり……方舟の……外」
 少女はにこにこと歯を見せる。
 ケイは瞬きをした。
 ケイが初めて踊りを披露した日、大人がまだたくさんいた時、眩いまでの拍手がケイを包んだ。あの輝かしい舞台、それが久しぶりに過った。
「ねぇ、お嬢ちゃん。俺も探したい。その、はるってやつ」
「うん、いいよ。あと、私はハルって名前だよ。おにぃさんは?」
「俺はケイ。けーちゃんって呼んでね」
「けーちゃん」
「やだっ。本当に呼ばれると恥ずかしいじゃないっ」
「ケイくん?」
「くん付けなんて何百年ぶり過ぎて恥ずかしい!」
「難しいんだね」
「複雑なんだよ、色々と。今から下に行くから、そこで待ってて」
 ハルは笑顔で頷いた。
 ケイは部屋を見回す。化粧を落とし、衣装を着替え、髪を下に結い直し、鏡の前に立つ。そしていくつかの物を鞄に入れ、窓を閉める。次にここへ戻った時、部屋は残っているだろうか。老女に一言伝えるべきか。
 短く考え、手紙を書いた。誰に何かを伝えるものではないけれど、とりあえずこの部屋はケイのものだと書き記す。こんなので補償されるとは思っていないが、ケイなりの別れだった。
「さよならはいつだって突然。それを悲しむより楽しんで行きたいんだよ、母さん」
 いってきます、と呟いて部屋を出る。
 外に出て下へ向かう。少女ハルは蝶と共にちゃんと待っていた。
「はじめまして、よろしくね、けーちゃん」
「はじめまして、ハルちゃん。怪しいお兄さんをよろしくね」
「どこに行けば、はる、あるのかな」
「そうそう、それ。はるって何者か、道中教えて。とりあえず、どんどん真っ直ぐ行けばなんとかなるんじゃない?」
「わかった。行こう!」
 ハルはふんわりした笑顔を浮かべると、蝶々を額に付けたまま奥へと進んだ。
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